インターネットが普及して、情報化社会となったことに久しいです。
あらゆる情報がインターネットに溢れ、
YouTubeなどの動画にも多くの著名人、研究者の方が物事の解説をしています。
本は電子書籍化されていき、多くの論文がネットに後悔され多くの情報がただ同然で手に入れることができるようになりました。
情報を囲い込むことで、情報が金になるという時代は終わりになってきているのではないでしょうか。
あらゆる情報が家からアクセスできるようになっているのどす。
そうなると、自分が知りたい、調べたいという事を研究するということはいつでもどこでもできる環境が整ってきているのです。
このような時代に何が起こるのでしょうか。
専門学校。
文系大学。
これらは学校の意味を問われてくるのです。
専門学校は最早多岐に渡りすぎてなんとも言えませんが、
大学という環境に固執しなくても、
自分の知りたい、学びたいという論文といった情報は最早、家にいてもアクセスできてしまうのです。
著名人の何人かは文系大学の存在意義を訴えている人もいるくらいです。
文系大学の意義は学歴を武器にする以外メリットはなくなってきているのでは
…と思う人も少なくないのではないでしょうか。
学ぶという行為は大切です。
しかし、大学自体に行ったとしても学ぶことを放棄してしまえば、それは意味はないのかもしれません。
では大学というのは全く必要ないのでしょうか。
ぼくは文系大学という研究機関は必要だと思っています。
ぼくは学歴という意味では武器になると思っています。
まだまだ日本は学歴社会。
というよりも人を見定めるということが下手くそであるからこそ生じることでもあるでしょう。
何も知らない初対面のヒトには、そもそもこの人がどれくらいの力があり、道徳心を兼ね備えているかわかりません。
つまり面接数回でその人を見定めることは不可能です。
だからこそ、
大学に出ているということは、そもそも嫌いな人が多い勉学というものに少なからずやってきたという証明になります。
その嫌いなことを成し遂げたということは、
仕事という嫌なことに対する忍耐力を示すことに繋がります。
またぼくは、勉強というのは道徳心を養うことができるツールだとも思っています。
全く関係ないと思えるかもしれませんが、
犯罪率と学歴(成績)は相関関係がかあるとめちゃくちゃ偏見をもっているためです。
忍耐力、道徳心
という観点からそれらの証明として大学というのは存在意義があると思っています。
もちろん
研究はどこでもできますが、研究機関として教授をメンターとして知らないことを知ることができることもメリットでしょう。
そもそも学ぶことを知らない人は、知らないことを知れません。
であれば、どれをどのように調べればわからないし、知らないことはそもそも調べれません。
その気付きを与えることもできるでしょう。
大学というのは全てが全て自分のやりたいことを学べる環境ではないでしょう。
中には半強制的につまらない講義も受けないといけません。
それの是非はあるかもしれませんが、
知らないこと(興味ないこと)学べる環境というのは実は貴重です。
知らないことを知れるというのは勉学の本質です。
興味あることだけでは、物事の本質には辿り着きません。
あらゆるベクトルでその物事のことを考えるからこそ本質が見えてくると考えています。
ではまたっ。